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プロドライバーとしての旅立ち リアル編

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私は還暦を超えたふつうのお爺さん(自分では普通の認識です)自分がプロドライバーになった経緯。私がタクシー運転手になったきっかけや当時の思いを記録してみました。

履歴書みたいですが私の思い(経緯)をこんな人もいるんだということを話のネタにしてみてください。

過去 サラリーマン時代

長いことサラリーマンをやっていました。23歳から50歳前まで20数年サラリーマンでした。

世界的にも有名なあるメーカーに在職、20数年努めていました。営業系の仕事が多く、主にマーケテイングが長かったです。新規事業の立ち上げもいくつかやらせてもらいました。

後半は世界的なIT企業にも在職しました。ヘッドハンターからの誘いに乗ってしまいました。3年弱ですが自分には合わないと思い3年ほどで退職しました。英語力は全くダメで、挫折ですね。本社(USA)への話の通らなさが一番の原因でした。考え方、文化の違いが大きな壁でしたね。

転職を決意

挫折感の中で自分の生き方を変えてみようと奮起。もう50歳も近く残りの人生について考えました。様々な仲間に相談しながら考えました。

結構考えたとき、「もうサラリーマンは嫌だなぁ」と思えてきました。前職が名前の知れた会社だったから比較されるのも、理由を聞かれるのも抵抗がありました。実際は。

とは、言うものの起業できるほどの裁量も技術も無い私ですから、、、、。転職しようと決意。

しばらくして、ある人に「こんな仕事があるよ」と紹介されたのがタクシードライバーでした。営業系の仕事が多かったためタクシーに乗ることはあっても仕事とするのは少し躊躇がありました。

やはり考えました。

昔から私は車の運転もドライブも結構好きでした。大きな声では言えませんが(時効だから云ってもいいかなと、、、)

私が初めて車の運転したのは6tの大型ダンプでした、現代の人は知らないと思いますが2段クラッチと言ってギアを入れる際は2回クラッチを踏みながらギアを入れます。当時9歳(小学4年生だったと思う)当然免許なんかありません。

当時親父が砂利トラに乗っていたので助手席にいつも乗り込んで見ていました。ある日、河原を走っているときに親父が「運転してみるか」と言って座布団を運転席に敷いてくれました。

当時(50年以上前)のダンプカーですから運転席の前は大きなボンネット。普通の大人でも前は見えないです。そんな車を運転したのが初めてだったのです。重いハンドルが記憶にあります。

それからもっと小さな2tのトラックにも乗り、乗用車にも乗るようになりました。国道を走ったこともありました。先生や駐在さんにもばれて怒られたことも何回かありました。(そこは田舎のやさしい駐在さん、無免許運転で捕まったことはありません)ただし注意はされましたよ。それで運転が大好きになり、今に至ったのかと思える。

単車の免許は16歳になった日に免許が届き、18歳で車の免許を取りました。自動車学校で取ったのですが3-3-9-10時間の基本時間で補修を受けることなく最短で卒業しました。結構自慢です。

結果 運転は結構好きで人の運転する車にはあまり乗りたがらない私なので、タクシードライバーに少し興味を抱き始めました。

やめておけ!! の声が圧倒的。

当然家族にも相談した。仲の良い友達に「タクシードライバーってどうよ?」って聞きました。

4人のうち3人は全く同じで「稼げないから」「きついらしいよ」とやめておけの意見が大多数。自分も何となく同意見だった。兄貴はいいんじゃないって言っていた。やはり昔の俺のことを知っているから運転が好きなこともよく知っているからかもしれない。

それから様々なタクシー会社の情報を拾い集めてみた。知り合いではないがタクシー会社の人にも聞いてみた。意外と内部の人は悪く言わなかった。1社のドライバーは強く反対したことはあった。

正直私自身も、タクシードライバーって、、、と思い込んでいたところもある。イメージは「輩(やから)が多い。なぜかアウトロー的なイメージを持っていたのは事実だった。

「タクシードライバー」という映画を見ました。ロバート・デニーロは大好きな俳優さんです。この映画もドライバーは「輩」風です。タクシー運転手のトラヴィスが、自らの存在を世間に認めさせるべく“行動”を起こすまでの過程を描く。ベトナム戦争帰りの元海兵隊員、重度の不眠症、余暇はポルノ映画鑑賞、不満と愚痴を書き殴ると言った内容から始まります。

やはりまじめにサラリーマンをやってきた俺には無理だ。と思いつつ、実は面接に応募していたのでした。自分の反骨心が顔をもたげてきたのです。あまりにも反対の声が多かったせいで、逆にやってやろうかと思い始めたのです。

やってみるか!

タクシー業界は慢性的な人材不足の時代で3社に面接に行った。実は3社ともいつから来れるとか、明日からでもいいよって言われ、逆におどおどしてしまった。

それで、結局 小さなタクシー会社を選んだ。

勤務体系も1日交替の隔日勤務ではなく、夜勤(21:00~翌朝8:00まで)。月に23日の出勤。体力的に夜は平気なほうなので夜勤に魅力を感じて選択した。夜勤のほうが収入も多いと聞いていたのでやってみることにした。

家族、仲間の意見を聞かず、意地になって始めたようなものだ。ゆえに簡単にやめることは出来ないと決意したのだった。

私の新たなる旅立ちの日だった。

私は第二種免許を持っていなかったので研修、二種取得支援カリキュラムのスタートからだった。提携先の自動車学校で10日間ほどだったと記憶している。そのあとは広域社団法人のタクシーセンター(タクシー免許を発行する機関)に1週間ほど研修に行った。

地理試験といわれる試験があり結構難易度が高い試験があった。受験勉強以来のかなりの勉強量だったと記憶している。必死で勉強した。確か数百か所の通り名、幹線道路や有名建物、病院、ホテルなどを本気で暗記した。

無事 試験に合格し、配属になった。初日は先輩ドライバーの同乗研修があった。2日間ほどの同乗研修も終えていよいよ一人デビューだ。

タクシードライバー デビュー

ドキドキ !! どうしよう !! 手を上げないでくれ!! なんて思いが手に汗をにじませる。

どうしよう! あっ、お客さんだ。最初のお客様は年配の女性だった。(おばあちゃんに近い、失礼)「〇〇病院までお願いします」。ラッキーーーー。知っている病院だった。

ほっとした。しかし、正直に「今日デビューなんです」と正直に話した。優しいおばあちゃんで「まじめにやっていれば大丈夫よ、頑張ってね。ありがとうね」と励ましてくれて料金のほかにチップをくれた。すごく感動したことを今でも忘れない。

今思い出すと、胸が熱くなる。あの時は本当に頑張ろうって心に誓った。

今は、、、、ちょっと変わってしまった。 また、嫌なお客様も増えた気がする。かけんかを売るような言いぐさの女の人。特に女性に多いのだが「急いで」とか「〇〇(行先の地名)しか言わない」、まるで敵なのかと思えるような言い方で愛想もない。愛想を求めるわけではないが、けんかを売るような言い方をしなくてもいいでしょう。と言いたい。

普通に会話してくれればいいのに自己防衛の為なの(自分を低く見られないよう気丈にふるまっているのか)かは、わからないがドライバーは非常に気分を悪くすることが増えた。間違いなく増えた。(まずい、愚痴ってしまった)

まとめ 振り返って思う事。

こんなこともあって、私がタクシードライバーとして旅だった当時を振り返ってみたのです。あの当時のピュアな気持ちを忘れず、プロドライバーを目指し、安全運転の模範となれるよう精進することを誓います。

この記事を見てくださったあなたも、安全運転で行きましょう。

まだプロドライバーになり切れていませんが、私も、また運転する皆様も少しゆとりをもって運転しませんか。焦ったり、競っていても交通事故は減りません。落ち着いたゆとり運転が一番大事だと思います。

初心の戻り焦らず余裕のある運転で安全運転の模範になれるよう精進します。デビューした時のお客様 あの説はお世話になりました、そしてありがとうございました。

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